何者かになろうとした大学生の予後の一例

気づけば就活をした時期から、4年が経っていた。4年もあるといろいろ分かってきたこともあるし、今でも分かっていないことも多分あるが、ここに自分語りを一つ置いておくのも、整理という目的の元ご容赦願いたい。

 

就活をして内定を勝ち取った友人後輩諸氏は立派に社会に参加していて、すごい。

 

僕は本来2021年卒業の学年で、僕の友達は院進よりも就職を選ぶ方が多かった、就職活動自体は、2019年から始めていた友人もいたし、逆に1年遅れで希望の道に進んだ親友もいる、実に新卒の就職活動というのは大変な営みで、そこで交わされる意思疎通などを考えると、みんななんて立派なんだろうと常に思っている。

 

その頃の僕は将来のことを1ミリもガチで考えていなくて、自営業者でやれるところまでやりたいな、くらいしか本当に考えていなかった、心の底から「アカンくなったら自殺してトンズラだ」と本気で思っていた、才能や能力やカードの見極めができていないのにこれは危ないし迷惑、ただ感覚でいえば、いつもこういう綱渡りをしているような気もしてくるが、ともあれ、人生を自分自身に賭けるという意識も、この辺りから急速に醸成が進んだようにも思う。

 

みんなが内定を取っていく中で、僕に増えたものは、不採用の通知と留年仲間だった。僕は飄々としているようで、正直ビビってはいた、だから僕は少し安心していた、なぜなら僕はその時、明確に社会のレールから逸脱したからで、それでも孤独ではないことが分かったからだった、一方で、この二項が感情に矛盾をもたらすということが分かったのはもう少し経ってからだった、僕はそれまで社会からはみ出る勇気すら持っていなかったから、この大学に紛れ込んでしまった、ここは想像以上に管理的で、将来の活躍を期待される平凡で優秀な若者で満たされている、確かに変わり者と呼ばれる人間は目立つが、学生のほとんどは真面目で勤勉で、最後はみんなどこかに勤めに行ってしまう。昔いじめてきた奴に徹底的に学歴マウントを取りたい、という悲惨な動機で受験戦争ゲームに参加していただけの僕は、大学で何を期待されても困るのだった。復讐心からは何も産まれないということがこの頃ようやく分かってきた、おそらく芸術でさえも。強いハッタリをよく使うようになったのもこの頃だったようにも思う、良く言えば自分自身で成長を促すことだが、悪く言えば愚劣なペテン師である、そして人からすれば迷惑である、焦っていたんだとは思う。今でもその頃の未熟な大きな失敗は自分の中でどろどろしているものがある、他人からの信用を失うということは、自業自得だろうと、あまりにも苦いものだと思う。

 

そうやって珈琲に没頭していった、多分没頭しなければ気が狂いそうだったんだろうし、実際のところ仕事が無くて焦って気が狂っていたこともあった、メンヘラを拗らせ初めたのもこの辺だった気がする、狂気の種はもともと備わっていたのかもしれないが、サブカル意識も混じって、僕はマスと違うことに喜んだり悲しんだりしていた、多分今もそうだけど。

 

サブカル意識は、性格形成期のインターネット(これは本当によくない)と、上に書いたような、社会という大きな他人に対する反骨の感情で構成されたように思う、一貫して中二病が治っていない、逆張りオタク。

 

留年仲間も、生存や価値、あるいは無意味のためにいろいろ頑張っている、留年経験のある人は全員友達、同窓生は戦友だと勝手に思っているフシがある。

 

留年自営業生活も、こうやって振り返ることができてしまうようになったのかと思うと、寂しくなる。ただ、初めは月にビタの100gも売れなかったのが、今では定期便にずっと登録してくれている方が何人もいたり、卸で月に40kg出荷した経験もさせてもらった、それは1人が食える額に相当する、状況は少しずつ進んでいるとは感じている。

 

内定ゼロ確定の時の初心は、就職できないなら起業、みたいなのではなく、最後は死ねばいいからただ突き進む、だったし、それは今も大きく変わっていないとは思うけれど、能動的な死は取り除いてもらえた、それもたくさんの人に迷惑をかけて学んだ、僕が他者に対して死なないでほしいと願う気持ちと同様のものが、自分にも向けられるということを全く理解していなかった、僕はそういう感情を「エゴ」と呼んで粗雑に扱っていた、自罰に酔うことが他者へ加害性を持つということをやっと理解したのは去年の5月だった。

 

...

縁に恵まれて、4年のうち2年は間借り営業をしていた、全盛期には週に3日間借り営業を回しながら、残りの日はバイトで埋めて、イベント出店にも出て、豆もバンバン出荷した、正直今から同じことをもう一回となると、体力がもたないと思ってしまう。その2年は極めて尊く濃密だった、ここでは書ききれないので割愛する。限界まで身体キャパを使っていた体感はあり、去年頭のキャパもわかったので、今年は予定通りに安定したスケジュールになるといいなと思っている、身体が動かないと本当に何もできない。

おそらく、双極の波が顕在化したのはこの頃の無理によるものだと思っている、今でもなにがしか無理してるなという時は振れ幅が大きくなる気がする、気分が事実によって無意識の形式で影響を受けているのだろうか、だとすれば今の処方には納得がいく、鬱を消すというより、頭の回転にブレーキをかける的な。でも抗うつ剤みたいなのは欲しい、俺にもデパケン出してくれんかな、やっぱり加害性の問題なんかとも思うけど、自分に対して加害してる場合もあるよなあなどとも思うし、OD歴あるから出ないかな、主治医の先生いい先生だし。その頃はまだ僕は通院していなくて、症状がどうあれ薬の一つも飲めなかったし、診断がつくことを嫌ってさえいた。消費者金融で金借りる感覚で新車を買ったのは、どこの病院でも躁エピソードとして扱われる、よく考えたら勢いで500万負うのはちょっとヤバい。でも一貫して買ってよかったとは思ってる、躁すぎるけど、よく調べたら定番の躁エピソードらしい、みんな大変だなと思った。道走ってる車のうち何台が躁転カーなんだろう。

 

 

2年の間の最大のターニングポイントは交通事故だった。2022年の8月にバイクで事故に遭って大コケして1か月歩けなくなって、身体にも急ブレーキがかかって見事に転落した。怪我でエンストした身体と、慰謝料という要素によって人生の予定が変わった。

事故に遭ったのは、悲願の実店舗を立ち上げようとしていたタイミングだった。僕は珈琲屋で生きていくことに決めて、その決断で零れ落ちるものには、一つ一つ涙をこぼしていた。

覚悟も決まっていたし、準備も進められる段階まで来ていた、が、それは事故直後に組み立てられるものではなかった。

 

交通事故の直後、無理を押して出店したイベントがあった。その時、僕は珈琲で作りたかったものが半ば偶然作れてしまった、半ば偶然というのは、脳内の想像を超えていたからそう思っているのだが、少なくとも僕にとっては完璧なものだった。エスプレッソブレンドはイタリアを踏襲しているから、初期に概ね完成していたし、正解はナポリにあることを確かめていたから、美味しいのは当たり前だった、だから僕はドリップのブレンドの完成形をずっと探していた、これには正解/完成形なんかないと思っていたから、ずっと探求していようと思っていたのに、それはあまりにも旨かった、本当に完璧だった、評価だけでなく体感ですらも直感のように確信できた。100g1000円は僕にしては高い値段設定だったけど、それが目の前でバンバン売れていった、衝撃的な光景だった。その時僕は、自分が望んでいたのは急拵えのハコではなく、こういうことだったのかもしれないとわずかに思わされた。他の要因も重なって、それからまもなく僕は、実店舗の計画を白紙に戻した、事故から4ヶ月後の12月のことだった。

 

年明け(2023年)には先方のご都合から、間借りが週3から週1になった。もう僕が燃え尽きる条件は揃っていた、間暇は退屈となって、精神疾患はどんどん悪くなった。5月に大自殺未遂をした、その10日後に渡米した、このあたりから安定剤のせいで記憶がよくわからなくなってくる。

 

その頃は安定剤ODのドツボにハマっていて、日本に居てもアメリカに居ても強い不安が僕に蔓延していた、愚かにも現地でODして足りなくなって離脱で死ぬほど苦しんだ記憶がある、終始そんな調子だったから、2023年の記憶はブツ切れになっている感が否めない。ただ、安定剤ODと虫歯を除けば、アメリカでの体験は素晴らしいものだったという記憶はある。

 

僕の認知の歪みはあると思うけれど、実店舗の計画を一旦白紙に戻してからも、自分の周りで「僕が就活して就職する」という未来はあまり取り沙汰されなかった、珈琲の師匠は僕に焙煎を教えたのに「お前は珈琲屋なんかやるな、もっとこう...」と僕にずっと説教してくる、これは最近言ってることが少し分かるようになった、やっぱり師弟関係というのは一種の宗教味を孕んでいそう。

 

結局僕はまだ人生を自分自身にフルベットしているという態度は変わっていなくて、張っていた自殺というセーフティネットは取り除いてもらった。競争が嫌で、行動の結果が全て自分に帰結する自営業を選んだら、そこにあったのはもっと厳しい野生世界の競争だった、これに乗れば、必ず勝者と敗者が産まれる、それは事実だと思う。だからこそ「やり直し」という概念が叫ばれるし、その成立には残酷にも年齢とカネが関係するし、燻ったまま全部を諦める時が来るかもしれない。結局、まだ僕は才能という曖昧なものの頭打ちを、才能だと思っているそれ自体が、歪んだ認知が産んだ誤解であったとしても、ずっと追い求めているような気がしてくる。結局まだ「何を」「どこまでやれるか」が分からなくて、僕はまだ落ち着けていない、若い悩みだなと思うし、多分、本当の本当に才能の限界面が確信できたら、何かが抜けるようにしぼんでしまうんだろうなとなんとなく思っている。その時に食えるように電気工事士2種を取った。

 

最近知り合えた、少し年上の大切な人が言っていた「自分は自分のことを天才だと思っていたから、本当ならもう死んでいるはずなんだ」という言葉が忘れられない。

 

 

 

 

来年度は大学に縛られてしまうので、落ち着いた学生生活然とした日々を送り、焦らず怠けず卒業を目指していきたい、8年生。秋ごろには、大学のサポートを受けられるうちに、障害年金の申請をしたいとも考えている、自殺以外のセーフティネットが必要になったから、という動機なのかもしれない、自殺が引き合いの人生は確かにおかしい、行政はすごい。善悪の話はここではやめておく。

 

卒業できたならば、交通事故の慰謝料が揃ったタイミングで、この街に自営の基地を作って、まだまだプレイヤーを続けていきたい、いろいろな人といろいろな面白いことをしたい、地元にも店を出したい、これは先の話だろうけど。どこ向いてるか分からなくても、前には進んでいきたい。

 

振り返ったようでまだまだ道半ばでした、勘違いの痛い野郎だったとしても、スポットライトが当たるような才能じゃなかったとしても、年を取って結局敗者になる結果を招くんだとしても、あるとするなら、自分の輝きは絶やさないでいたいし、みんなそうであってほしい、何者かにならなくても、なれなくても、幸せや豊かさがあるとするなら、それはもっと別のところにありそう、そう思う今日この頃です。

 

 

NY日記①

入国審査編

 

おじさん How long do you stay?

自分  Two monthes.

おじさん What's the purpose?

自分 Sightseeing. And I'll stay at...(紙を出す) There.

おじさん Well. Mmmm...
自分  Actually I'm a companion of her, she is a student of Columbia University.

おじさん what?... Are you a student?

自分 I'm also a student...of Kyoto University in Japan.

おじさん ? Mmmm...
自分 My Visa is ESTA, I don't work, study. And I just...Be.

おじさん (小首を傾げて苦笑い)You may go now.

自分 Thank you,Sir.

三段壁

本当に死のうとしたんですけど、保護された後に珈琲屋の奥で、時間があったので、総括をしました。

縦に1行ずつのコマです

途中からは完全なフィクションです

自殺は、NPO?のパトロールで、失敗しました

 

f:id:white1011river:20230525014602p:image

f:id:white1011river:20230525015058p:image